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田んぼも町もやられましたが私は元気です

友人達が遠方から来てくれて楽しい年末年始を過ごしていましたが、

残念ながら地震のバカヤローのせいで元旦から大変な事になってしまい

今日に至ってしまいました。

ダイジェストとしてお伝えするので相当端折りますがお許し下さい。

まずは発災時ですが、私たちは妻以外がリビングルームで

「温泉でも行こうか〜」なんてどこにでもあるまったりとした正月時間を過ごしていました。

一発目の地震で業務指令が出たので出発しようとしていたところ本震を喰らい何が何だか分からないような状態になってしまいました。

道はズタズタで原チャリしか走れないし、その道も倒れた家屋に阻まれなかなか身動きが取れないなか火災も発生し何が何だか分からないまま過ごした元旦の夜でしたが、翌日町の惨状を目にして気を失いそうになりながら様々な確認などを行なっていました。

何年か前の断水時に買っていた備蓄の水があったので取り敢えず煮炊きは出来たので、それで炊き出しを行なっていたので発災初日から食の心配はありませんでした。

その後自宅の裏山が崩落している事に気がつき、

隣の青年と協議の上森林組合に依頼して危険な木々の伐採を行なっていただきました。

自分でも切れるなんて思ってましたが

デカすぎて無理でした。

お陰さんで続く余震でも家は無事でした。

しかし、蔵や納屋、車庫、本社などは壊滅状態で被害額は計算不能です。

築150年の母屋だけが生き残っているのですが、その理由はいずれゆっくり書きます。

3日あたりから地元の土建屋さんがボランティアで道の修繕とかを行い始めました

と同時に市外への道もどうにか通じたとの話を聞いて友人達を県外に逃しました。

これで安心だと笑顔で見送りました。

それからは毎日両隣の家に残った人に対しての炊き出しを行いました。

その更に奥の人たちは自分たちで色々食べてたので大丈夫でした。

そんななか発災時に脚が折れてしまった薪ストーブの修繕や

再点火なども恐る恐る行い(また大きな地震が来たら嫌だなと思い)

水を汲みに行った避難所前で自衛隊のみなさんが用意してくれたカレーや

トルコ人の皆さんが焼いてくれたケパブをご馳走になり

「ガンバレニッポンノトモダチ!!」と背中を押されて泣きながら食べたケパブやカレーの味は一生忘れられない味になりました。

震災後何日も怖くて近づけなかったライスセンターなんですが

なんと

向かいのY崎のおばちゃんちがぺちゃんこなのに

ほとんど無傷でした。

そして中に入っていた機材も

位置はメチャメチャですけど

無事でした。

そして去年買い揃えた乾燥機も

動いてはいたものの全て無事でした。

これは夢なのか?と思うほどの被害のなさにその場に座り込んでしまいました。

さすがに瓦は動いたりしていて雨漏りはしていたので

後日修理する事にしました。

その間にも関電工の皆さんがドバーッと集落の端の方に住んでいる住民のために

電柱を立てたりして通電して下さったりと。

彼らは去り際に私たちに食べて下さいと食料を全て置いて行ってくれました。

いちいち人の温かさに泣かさればかりの毎日でした。

苦しくて悔しくて泣いているんじゃないんです。

人の温かさに泣かされてばかりでした。

そんななか七尾市のホームセンターが再開してバーゲンしていると言うので行ってきました。

私が買い求めたのは防湿シート。

これからリフォームを再開するので買ってきました。

そのほか

雨水を溜めて使う雨水タンクなんかもバーゲンプライスで。

色は最悪ですけどそんな事言ってられないので。

それから氷見市のうどん製麺所へ行って鍋焼きうどんをいただく。

そんな日常を取り戻すような日々のなか父親の認知症が進み手に負えなくなってきたと母親に相談されDMATにより1.5時避難を実施。

しかし、DMATの現地での説明では1.5次避難所で施設をコーディネートしてもらい安全な施設に行くとの話は大嘘で1.5次避難所では家族が施設を探すように指示される。

丁度妹が来てくれていたので妹の住む埼玉県の施設に父をショートステイで預ける事に。

妹よ。助かったよ。

と父は覚えていないだろうけど初の北陸新幹線で埼玉へ向かいました。

そして母親の2次避難先の温泉施設に向かおうと車を走らせていたところJTBの担当者から電話「お母様、お一人様での避難になったと言うのですが間違いないですか?」と。はいそうですと答えると「先方の施設は2名利用からでないと使えないのでキャンセルしますので新しい施設を探して下さい」と一方的に言って電話は切れた。

もちろん私もキレたんですけど、当事者の母のいるまえでキレる訳にもいかず淡々とその事を母に伝えました。「私たちが迷惑かけているから仕方ないね」と笑う年老いた母を見て悔しくて腹が立って泣きました。

奴らは単なるビジネスとして受け入れているのだろうけど避難者にとっては生命線なんだぞ。

この2社だけは生涯忘れもしないし許しもしない。

唯一の救いは1.5次避難所の担当者が本当に親切に寄り添ってくれたこと。

彼に本当に救われた。

それから何日か過ぎて震災ゴミの収集がはじまった。

お風呂が使えないので週に1回程度は金沢や富山に出てお風呂に入ったり

隣のおばちゃんの様子を見に石川県スポーツセンターへ行ったり

焼肉食ってみたり

ラーメン食ったり

地震で割れたマグカップ買ってみたり

親戚の家のブルーシート貼ったり

そんなある日同級生の友人から電話があった。

「お父さんどうしてる?とfbである程度書いていたので彼も把握はしていたんだけど、自身の経営するグループホームのこれまた同級生の所長が「自分が面倒をみたい」と言ってくれたようで友人は埼玉から戻すようにと言ってくれた。

県内の施設は空きがゼロだと伝えられていたので驚いたんだけど彼らの好意に甘える事にした。

そして先日。再び妹が埼玉から父親を連れてきてくれた。

ごきげんな親父。

母は自分で決めた2次避難先のアパホテル小松にいると言うので父と妻、妹の4人で面会に行った。

父は「お前は何してんだ?」と不思議がるが避難中だと言うも地震の記憶がないので説明が大変。

そしていよいよ友人の施設へ。

父を慕う施設長と再会して嬉しそうな父。

その後友人も現れ再会し、ハグしたが思わず泣いてしまった。

すまん。ありがとう。本当にありがとう。

彼らの父を思う気持ちが嬉しくて泣いた。

感謝しかない。

ありがとう。

そして今日、先週持っていかなかった震災ゴミの収集を近所の土建屋さんたちがやってくれていた。

もう長くなったので田んぼの話はまたあした。

こうやって書いてるだけで泣けてきます。

怒涛の1ヶ月でした。

でもこれだけは言っておきます。

私は能登を、輪島を諦めたりはしません。

決してこの地を捨てて出てゆくこともありません。

揺れる大地と共に生きてゆきます。

なぜなら?

能登が、輪島が大好きだから。

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田んぼも町もやられましたが私は元気です」への1件のフィードバック

  1. 元旦の夕刻に関西もえらく長い揺れがあり、その後TVの速報で震源が石川県能登地方と流れ、真っ先にクロガネ師匠の安否が気になり、ずっと頭の片隅ですが『どうなってるんだろう?』と気になってました。
    ブログ記事読み進めるうちにこみあげて来るものがありましたが、とりあえず無事で何よりです。
    家の事、田んぼの事、地域や事業の先行きに不安もあるでしょうが、能登輪島の一日でも早い復興お祈りしております。
    毎度大きな災害があったら何か出来る事があれば、、、と思うのですが、結局のところ募金程度しか出来ない自身がもどかしいです。。。

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